お知らせ

令和元年度 第2回N-HECを開催しました(9月7日)

2019年9月30日

今回のN-HECでは、前回抄読した論文「Pattern of Expanding Consciousness in Midlife Womed:Creative Movemenr and the Narrative as Modes of Expression」に関連して

デヴィッド・ボーム著,金井真弓訳「ダイアローグ」(英二出版)の第5章「見るものと見られるもの」第6章「保留、肉体、自己受容感覚」を抄読しました。

「ダイアローグ」は昨年度に第2章「対話とは何か」を学習し、対話は結論を求めず自分と異なる意見・想定にも耳を傾け、‟どちらが良いか”といった二元論的な考えではなく

新たな思考を生み出す弁証法が基盤であることを知りました。

5章、6章では様々な概念が取り扱われていますが(やや難解です)、私が最も印象に残ったのは「自己受容感覚」です。これは、「自己認識」と同義であると説明されています。

通常私たちは自分の手足が自分のもので、自分が動かしていることを認識しています。他動的に手足を動かされた場合には、「私の手足」であるが、自分が動かしたのではないと分かります。

それでは、思考はどうだろうか?思考にも自己受容感覚があるのだろうか、という疑問が提起されています。

そして、「本来、思考と感情、行動を繋ぐ唯一のものは人の中心にある「存在」であり・・・・すべてのものがその人間の中を通っていく。

しかし、実際は、思考と感情がそれぞれ別のプロセスとして動いている証拠が見つかるだろう。それらは‟私”の中を通過していない。

‟私”が生み出したものでも、経験したものでもないのである(p.158-159)」と述べられています。

日常のなかで、自分の思考がなぜ生じて、どのようなプロセスを経たのかを追求することはほとんどありません。

ニューマン・プラクシスによる看護師の関わりによって、患者や家族は自己洞察します。これは、自己受容感覚を働かせるということなのかもしれない、と考えました。

しかし、ボームが伝えたいことや、この概念がどのようにニューマン理論に関連しているのか、まだまだ学習が足りません。

学習会の参加者も、対話についてもっと理解を深めたい、と思ったようでした。そこで、次回は改めて「対話とは何か」をみんなで学習することにしたいと思います。

 

今回は、一人の参加者が過去に出会った、心に残る患者との出来事を話してくれました。

それは、患者の声を捉え思いに沿うことを大切にしてきたナースが、患者の最期に患者の思いを聞けなかったという後悔でした。

ナースは、その患者に対する最善をいつも考えて看護をしていますが、予測不可能な出来事が起こります。そんなとき、自分の何がいけなかったのかと後悔や自責をして苦しむこともあります。

事例検討は、今後の看護実践をより良くするだけでなく、ナースの中にあるわだかまりを否定的なまま終わらせず、新しい見方を生みだすためのものであると考えています。

ここでは何を話しても良い、という安心感の中で看護を語りあうことを続けていきたいと思っています。